対人恐怖症が治りました

ひきこもり、社会不安障害(SAD)の方にも、お役に立てると思います。

友達がいても悩む理由と悩まない考え方(自分の場合)

ユダヤ教の教えに、こんな話があります。「10人の人がいるとしたら、そのうち1人はどんなことがってもあなたを批判する。あなたを嫌ってくるし、こちらもその人のことを好きになれない。そして10人のうち2人は、互いにすべてを受け入れ合える親友になれる。残りの7人は、どちらでもない人々だ」

ー嫌われる勇気246ページよりー

僕自身の高校生時代のことを振り返ってみると、たしかにそうだと思います。クラスは35人くらいだったので、お互いに嫌いというか、なんとなく拒否してしまう相手が3人くらいで、仲の良い友達や気軽に話できる相手は6人くらいで、残りの人はあまり関心がなく好きでも嫌いでもない相手だったように思います。

ただ、これは今振り返ってみての話で、今の自分だったらそうなるだろうと思いますが、実際の高校時代はそうではなかったです。

同じクラスに親友はいなかったですし、嫌われるし嫌いな相手はもっと多かったです。どちらでもない人になるはずの相手からも嫌われていたように思います。

今、振り返ってみて、僕が嫌われる要素ってそれほど多くないですが、「嫌われたくない」と考えての行動や発言が嫌われる要素になっていたんだと思います。

親友は10人中2人で十分過ぎるくらい十分なのに、皆から好かれないと満足できなくて、ビクビクしていたのだろうと思います。

何故、皆から好かれないと満足できない状態だったのかを考えてみたのですが、多分社交的で明るくてクラスの人気者にならないと自分で満足できなくて、それが出来ていない自分は「ダメ人間」だと感じていたのだと思います。

今考えると、僕を嫌う人がいて、逆に嫌いな相手がいることは、当たり前の話なんですが、自分が嫌われることを必要以上に怖がっていたのだと思います。

人が何人か集まると、必ず自分を批判的に思う人は当然いるでしょうけど、当時、そこを理解できていなかったように思います。

そして、誰からも嫌われないように間違った努力をして、結局それが嫌われることになりコミュニケーションの場において、上に書いたようなバランスが崩れていったのだろうと思います。

このバランスを理解して、嫌われる勇気さえあれば、矛盾しているようですが、嫌われることはなかっただろうと思います。

嫌われないために自分に無理をしてまで「相手から見ていい人」になろうとして、結局自分が壊れていったのかもしれないです。

そもそも無理があったんですよね。皆から嫌われないように、全員から好かれるように、クラスの人気者でないとダメだと考えていることが、ある意味よくばりだったのかもしれません。

兄弟で比較されて育って、「自分に注目にしてほしい」と考えるようになったのかもしれません。僕は、親に比較されて育ったとは思っていませんが、自分の勝手な解釈でそうなったのだろうと思います。

今思うと、凄く仲良くなっていたはずの相手とも上手くいかなかったです。

結局、自分の解釈の仕方が間違っていて、対人恐怖症になったように思います。

本にも書いてありますが、自分で勝手に解釈した結果で出来上がった自分なので、今からでも、しかもいつでも、自分の解釈の間違いに気付き修正していくことで人は変われるんだと思います。

中学生の頃は、友達はある程度いたので、それで悩む必要はなかったのですが、全員と仲良くならないとイケないと考えたり、人が集まると自分のことを嫌いな人がいることは当たり前なんですが、それを理解していなかったので、友達がいても悩んでいたんだと思います。そして高校生になって、余計に友達ができにくくなったのかなって思います。

結局、悩まなければ友達は普通にできるんだと思いますが、悩んでしまうのでしょうがないですよね。(僕の場合)

悩むなと言われても、悩むものは悩むんで、どうしようもないと言えばそうなんですが、自分のことを批判する人、自分を嫌になる人は、割合の問題で、人数が多くなればなるほど増えるので、それを理解するだけで少し悩まずにいれるのかもしれません。

極端な話かもしれないですが、好きな芸能人ランキングに入る人って、嫌いな芸能人ランクにも入ることが多くて、それをイチイチ芸能人が気にしていたら、仕事ができないのと同じなのかなって思います。

ちょっと例えが、悪かったですが僕はそう思います。

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