対人恐怖症が治りました

ひきこもり、社会不安障害(SAD)の方にも、お役に立てると思います。

結局は過去の記憶

僕が究極に悩んでいた時のことを思い出しました。

ほんとうに辛かった。何もかも上手くいかなかったです。頑張ろうにも頑張りようがなく、何を頑張ればいいのかさえわからなかったです。他人に嫌われ自分自身に嫌われて、たったひとりで彷徨っているような感覚です。

悩んでいると、頭がボーっとしてきて何で悩んでいるのかさえわからなくなってきます。少しだけ対人恐怖の悩みを考えなくてもいいパチンコに夢中になっていた時期もあります。正直、借金したこともあります。

会社を無断欠勤して、何も考えたくなくて行くところも思い浮かばずに、ついついパチンコ店に入ってしまう、ちょっと依存症だったと思います。

でも、結局、過去の記憶です。当時苦しかった。でも、今となってはただの過去の記憶。辛い時期を乗り越えると当時の辛さは記憶の中だけのことになります。どんなに嫌われていても、他人に迷惑を掛けていたとしても、乗り越えた後は記憶の中での出来事なので辛くないです。過去の記憶の中での出来事は「今」起きていることではないので辛くないという意味です。

今が辛いと感じる人はどうか乗り越えてほしいです。乗り越え方は人それそれだと思います。

僕の場合を振り返ってのことですが、乗り越えるために必要なことは3つです。

1、時間
2、環境
3、正しい努力

この3つは必要だったと感じています。

時間というのはそのままですけど、時間が解決してくれる部分もあるということです。例えば人生経験や考え方、どこかで勘違いしていたことを修正するためには時間が必要だと思います。そして僕の場合は環境が大きな要素になっています。

僕にとっては、時間と環境は重要でした。そして自分なりの正しい努力は必要でした。

今が辛いと感じている人は多いと思います。でも、10年後は今起きている出来事は過去の記憶になっているので、そのことで辛くはないです。自分の「経験」として記憶に残るだけです。

それだったら、今が辛過ぎるので、10年後にタイムスリップしたいと考えるかもしれないですが、現実は無理なので「今」を生きながら少しづつ10年後の自分に向かって自分なりのペースで進むしかないです。

辛い時期がもう少し続く人はいると思います。何をやっても上手くいかない、誰も自分のことを理解してくれない、何も考えたくない、だれからも説教されたくない、言われなくてもわかってる、もうなにもかも投げ出したい。

自分に配られたカードが不運だと感じることはあります。でも不器用な人ほど人として魅力的なのも事実です。何か問題を抱えている人が、それを乗り越えようとしている姿に涙がでます。

何を書きたいのか自分でもわかりません。

今できることをする。「できること」は人それぞれなので、出来ないことがあってもいい。「今の自分は何点の出来なのか?」そんなことを考えてもどうしようもなかったです。

ふと、自分の人生で「悩んでいた時間」はどれくらいだろうと考えてみましたが想像つきませんでした。そういうのが測れる機械みたいなものがあれば「えっ、こんなに悩んでいる時間が多かったのか」と思うのかもしれないです。

悩んでいた時間が役に立っているのか、無駄だったのかはよくわかりません。でも、かなりの時間を費やしていることは間違いないだろうと思います。

悩んでいても何も変わらないという部分もあったように思います。その時間を少しだけ「正しい努力」をする時間にしていればよかったと考えたりもします。

「ものごとを正しく見るには、たった一つのやり方しかない。ものごとの全体を見ることだ。」(ジョン・ラスキン)

悩んでいる時は、その出来事だけを繰り返し思い出して落ち込んでしまうことはあります。でも、少しだけ全体を見ることができれば、解決策が見つかることもあると思います。

ものごとの全体を見ると、自分には無理なこと、頑張ればできること、時間が必要なもの、などと客観的に見ることが出来ます。

客観的に考えて、自分には無理なことを続けていると、いつまでも繰り返し悩むのかもしれないです。そうであれば、自分には無理なことはいったん保留にして、頑張ればできることに集中した方が効率がいいのかもしれないです。

この記事に関係ないかもしれないですが、気に入った格言があるので書きます。

「感謝しているのにそれを伝えないのは、プレゼントを包んだのにそれを渡さないことと同じである」
(ウィリアム・アーサー・ウォード)

この格言を読んで、今まで自分がしてきたことが書かれているようでした。

自分が悩んでいる時や落ち込んでいる時は、「自分の発言」に自信がなくり、「どう思われるだろうか」と考えて何も発言しないという選択をすることが多かったです。

でも、それは自分の気持ちを包んだのにそのままにして、自分で持っているだけだったと思います。相手に渡すことが、「今できること」で、やるべきことなのかもしれないと思いました。

「包んだものを渡すだけ」というこんな簡単なことでさえ、悩んでいる時は難しくて勇気がいることのように思えてきます。

感謝を伝えることは相手への貢献になると思います。自分が苦しい時こそ「相手への貢献」は必要なのかもしれないですし、愛情で会話することで楽になるように思います。

「プレゼントを包むだけ」と「プレゼントを包んで渡す」を比べてみて、どっちが楽なのか考えてみましたが、包んだだけで苦しくなるよりも渡してしまったほうが楽なんだろうと思います。







前へ進めないとき

前に進めないとき何を考えていただろうか。

僕の場合は今日一日を振り返って、自分の症状がでたときの他人の反応や自分がどう見られていたかとか繰り返し考えていました。

そして、明日は大丈夫だろうか、明日はもう少し明るく振る舞って社交的になってみようか、今日の失敗を気にしていないフリは上手くできるだろうか、症状がでていないフリは上手く出来るだろうか、まずは明るくあいさつすることから始めてみよう。

そうやって、今日の反省と明日の自分の行動を考えることは多かったです。どうにかして、この状況から抜け出して、他者と上手く付き合っていく方法はないかと作戦を考えていたと思います。

今思うと、自分にウソをつく気満々でした。「明日こそはやってやる、違う自分で突き進もう」そんな感じでした。今の自分じゃダメなので、違う自分でいくしか方法がないと思っていました。

毎日そんなことの繰り返しだったように思います。繰り返していたということは、それが上手くいかなかったということだと思います。そして余計に疲れて大したこともしていないのに人一倍疲れ切っていました。

でも、しょうがなかったんだと思います。対人恐怖症なのでしょうがないですよね。

毎日毎日悩んだ結果、自分なりの答えだったと思います。それが間違っていたのか正しかったのか、プラスになっているのかマイナスになっているのかは、よくわかりません。

「自由に生きる」という意味では間違っていたと思いますし、「乗り切る」という意味では正しかったのかもしれないです。毎日毎日、同じところでつまづいて、前に進んでいなかったようにも思います。

どうやっても前に進めないとき、僕の場合は逃げました。人それぞれなので逃げなくても大丈夫な人もいると思います。

でも、僕は逃げた後、逃げっぱなしではなかったです。逃げた後は再チャレンジしていました。それでも前に進めずにまた逃げることもありました。そしたら、またチャレンジです。今は、「それが何回続いたっていいじゃないか」って思います。

最後は乗り越えられるんだから、何回逃げてもいいし、弱音を吐いてもいいし、他人のせいにしてもいい。「自分なりの生き方」が見つかるまでに時間はかかるものだと思います。それが2年の人もいますし、10年の人もいると思います。

逃げる場所は人それぞれでいい、逃げる時間も人それぞれでいい。

ただ、逃げたのなら、逃げっぱなしではなくて、自分のタイミングで再チャレンジするほうがいいと思います。上手くいかなかったらもう一度逃げればいいだけなので。

僕は何度も逃げています。でも、それは前に進むための逃げであって、逃げ切るために逃げたわけではないです。

どうしても無理なことを無理やり乗り越えようとして怪我をしたときに、誰か責任とってくれるのか、ということなのですが、誰も責任とってくれないので、自分の身は自分で守る必要はあると思います。なのでどうしても無理な場合は逃げることも必要だったりすると思います。

これをマイナス思考と考えるのか、「前向きな逃げ」と考えるのかは人それぞれだと思います。僕は「前向きな逃げ」だと思っています。

どうしても前に進めないときに、仮に「嫌われる勇気」があれば進めるのだとは思いますが、実際はそう簡単に嫌われる勇気を持つことは難しかったりします。「嫌われる勇気」という本を読んだ翌日からすぐに嫌われる勇気が持てるはずもなく、時間はかかると思います。

よく携帯のゲーム(将棋とかトランプ)で手詰まりになったら、もう一度やり直しますよね。それと比較して人生はやり直しがきかないとか言います。

でも、実際は人生は方向さえ変えれば、ゲームのようにいくらでもやり直しが出来ると思います。っていうか、方向を間違えていただけかもしれないです。

正しい方向はイコール「自分なりの生き方」であって、それを見つけるまでは何回でもリセットできるものだと思います。

「自分なりの生き方」を見つけるまでは辛い経験を繰り返すかもしれないですが、逆に言うと、「辛い経験」をしないと「自分なりの生き方」は見つけられないものなのかもしれないです。

他人に振り回されることなく、ある意味自由に、自分の人生を生きるための試練なのかもしれないです。

ダラダラと長い文章になってしまいました。読み直ししていないので誤字脱字あると思います。