対人恐怖症が治りました

ひきこもり、社会不安障害(SAD)の方にも、お役に立てると思います。

幸福の定義。しあわせって何だろう?

「嫌われる勇気」という本の「幸福について」の章で、「幸福とは貢献感である」と書かれていました。

それで、ちょっと思い出しましたが、以前、何かで聞いたことがあります。幸福度が一番高い人たちは、ボランティアをしている人だそうです。

最近、「はじめてのドラッカー」という本を読みました。16ページに「仕事の目的は「貢献」」といタイトルで「何のために働くのか?」の答えが書かれていました。

「自分は何のために仕事をしているのか」と、働く意味を見失う時があります。ドラッカーは仕事の基本は「貢献」であると言っています。では、「貢献」とは何でしょうか?

それは誰かの役に立つことです。お客様や、取引先、会社や社会に対し、自分が仕事をしたことで喜んでもらうことです。そうして貢献したことで、評価され、仕事にやりがいを感じ、さらに意欲的に仕事をする。「貢献」こそが仕事をするための真の原動力と言えるでしょう。ー(まんがでわかる)はじめてのドラッカー16ページ。

昔読んだ「億万長者専門学校」という本の67ページを久しぶりに開いてみました。

「好きなことをしてもいい」、あなたはまず何をしますか?
いまから「2週間」好きなところへ行って、好きなことをしてきていい。しかも、常識の範囲内であれば「経費はすべて出る」としたら、キミは何をする?

だいたいの人が、旅行やマッサージ、温泉でゆっくりしておいしい料理を食べるなど、「安心感と快適さ」を満たそうとするそうです。つまり、いま感じている束縛から逃れ、「安心感をとり戻したい」と思うんだ。

じゃあ今度は、「2週間」じゃなくて、「2か月」だったらどう?

この問いには、世界中の移籍を見に行きたい、オーストラリア大陸をオートバイで旅行したいなど、「自由」や「バラエティー」を求めようとするそうです。

じゃ今度は2週間や2ヶ月でもなく、「2年間」好きなことをいてもいい(仕事のことは考えなくてもいい)としたら、キミは何をする?

この問いには、専門学校で専門知識を学びたい、世界中の美術館を巡って芸術センスを磨きたいなど、多くの人が「勉強したい」とか「技術を身につけたい」と「成長のニーズ」を満たしたいと思うそうです。

じゃあ最後に、2週間でも2ヶ月でも2年間でもなくて、「50年間」、経費の心配をせずに好きなことをし続けていいとしたら、キミはいったい何をする?

50年もあると、色々とやりたいこと、できなかったことや、ひととおりのぜいたくや冒険をして、それが普通になりわくわくしなくなると、人は「貢献のニーズ」を満たしたくなる。

この50年間の問いが、ほんとうにやりたいこと。だそうです。

詳しくは、「億万長者専門学校 実践編」を読んでください。個人的にはおもしろかったです。

海外のセレブが寄付したり、環境問題を考えたりするのは、こういうことなのかもしれないと思いました。僕自身は金銭面でも気持ち的にも、こういった余裕はないので現実的な考えではないですが、仮にお金の概念のない世の中であれば、人は「貢献感」を求めるのかもしれないと思いました。

僕が感じたのは、余裕がないから貢献できない、という当たり前の発想ではなくて、余裕がないから「貢献」について考える必要があるのではないかということです。

僕の場合ですけど、どこかで「自分だけが勝てばいい」という考え方があって、今までその考えで生きてきたように思います。だから苦しかったのかもしれないです。

幸せって何だろう?難しいです。

苦しくなるのは対人恐怖症がない人の生き方と比較するから。自分は自分でいい。

自らの生について、あなたにできるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、あなたにはどうにもできない話です。
(嫌われる勇気、147ページ)

当たり前の話ですけど人生は選択の連続です。人生を左右する大きな選択もありますし、小さな選択もあります。例えば大きな選択といえば就職先を決めるときや結婚相手がそうですし、普段のなにげない会話の中で「自分がどういう返事するか」という小さな選択もあります。

「選択」することが難しいと感じることはあります。そして選択した結果、苦しくなることもあります。

他人の評価を気にすると、間違った選択をしてしまうことがあります。例えば就職先や進学について自分の考えを押し殺して「選択」することもあります。

僕の場合ですけど、対人恐怖のない人と同じような選択をしないとダメだと思っていたので、自分なりの選択をした場合でも苦しくなっていました。

例えば正社員を辞めてアルバイトしたときも、自分なりの選択だったのですが、他人からの評価を気にして苦しくなっていましたし自己嫌悪になっていました。

他人から何を言われても、自分には対人恐怖症があるんだから、自分なりの選択を信じていれば、もっと楽だったのかもしれないです。

自分の行動を他人がどう評価するのかは、その人がすることであって、自分がその「他人からの評価」を操作することはできませんし、どうすることもできません。

しかし、僕の場合は、その評価をどうにかしようと考えて、自分をよく見せようとしたり、言い訳をしたりと必死でした。無理なことを頑張っていたので、いつまでも楽になれなかったです。

無理なものは無理なので、どれだけ頑張って自分をよく見せようとしても自分が苦しくなるだけでした。やはり課題の分離というのは必要だったと感じています。

他人の評価を考えながら行動すると、他人に振り回される人生になって、他人の人生の中で生きることになります。自分の人生を生きるためには、自分なりの選択を信じて突き進むしかないのかもしれないと、この本を読んで思いました。

「自分には対人恐怖症がある」と受け入れた時に、他人の評価を気にせずに、自分なりの選択が出来るようになるのかもしれないです。

自分の行動が他人から理解してもらえないと感じることもあります。しかし、自分が理解できていればそれでいい、という部分もあると思います。「自分は自分」なので。

対人恐怖症のない人と対人恐怖症の自分を比較すると苦しくなることは多かったです。他人が簡単にできることが自分にはできなかったりしますし、「なんで、これくらいのこと出来ないのだろう」と思われているんじゃないかとか考えます。

それが親とか兄弟だとしても、自分の行動を理解してくれないことはあると思います。僕の場合は親や兄弟に説明もしていなかったので、僕の行動は理解不能だったと思います。単に忍耐力がないと感じていたと思います。(すぐに会社を辞めたりするので)

でも、誰も理解してくれなくても、自分が正しいと思うほうを「これが自分なりの選択だ」と信じることで、楽になるのかもしれないです。

正直、僕は孤独でした。誰にも説明していなかった時期は自分だけの世界にいたと思います。

友達も数人いましたが、結局家に帰って一人でいると、誰とも気持ちが通じ合えていないという虚しさみたいなものは感じていました。なので理解者は必要だったと感じています。

話が全然違う方向になってますけど、1人暮らしをしている時は本当に寂しかったです。この寂しさは言葉で説明できないですけど、大げさじゃなく暗闇に1人でいるような感覚でした。

少しづつ前に進むしかないです。誰も理解してくれなくても、自分なりの人生を歩むしかないです。