対人恐怖症が治りました

ひきこもり、社会不安障害(SAD)の方にも、お役に立てると思います。

話しかけにくい雰囲気って何?

あけましておめでとうございます!今年もよろしくおねがいします。

年末の紅白は、世界の終りの歌を聴いてカッコいいなーと思いました。ただの感想です。生放送で皆さん緊張されていたようで、それを見るのも紅白の楽しみの一つになっているのでしょうか。

話は変わりますが、僕の友人の話をしようと思います。

以前アルバイトしていた時に、同じくらいに働き出した25才くらいの友人なのですが、普段すごく大人しい人で自分からしゃべりかけることがほとんどないです。

おまけに、声が低すぎて、しかも小さいので、ほとんど聞きとれないことが多いです。でも本人は全く気にしていないようで、会話するときはいつも楽しそうにしています。

僕がいちばん仲が良かった相手なのですが、周りにも彼の魅力が少しづつ浸透していって、人気者でした。大人しくて自分からは話しかけないのに皆から愛されるタイプのようです。

ボソボソと話すので何を言っているのか分からないことも多かったのですが、それも魅力の一つのようです。好かれるキャラだったんだと思います。

一歩間違えれば、声が小さくてボソボソしゃべることとか、自分から話しかけないことが自分のマイナス面だと考えて劣等感になって、話しかけにくい雰囲気になるんだろうと感じるのですが、本人は全くそういうのがないようです。

僕自身がこういう感じだったら、すごく悩んで、話しかけにくい雰囲気になっているだろうと思います。

「自分から話しかけないし、大人しくて、声が小さい人だな」と思われるのが嫌で、そうじゃないフリをしていただろうと思います。

自分がマイナス面だと感じている部分を、自分自身が受け入れることが出来ている場合は、マイナス面にならずに、それがその人の魅力にもなるんだろうと思います。

僕の場合は、自分のマイナス面を受け入れることができていなかったので、周りからすると「はれもの扱い」みたいになっていたと思います。それが周囲から話しかけにくい雰囲気になっていたんだろうと思います。

やはり、自分のマイナス面を受け入れている人の周りには人は寄ってくるのだろうと思います。

マイナス部分があるから寄ってこないのではなくて、本人が受け入れていないから寄ってこない場合は多いのだろうと思います。自分をうけいれるって難しいですよね。

欠点のある人を自分は受け入れることができるのに、自分に欠点があった場合は周囲から受け入れられないと感じてしまいます。

そんなに自分に厳しく他人にやさしくしなくてもいいと思うのですが、理想は「自分にやさしく、他人にもやさしく」だと思います。

自分に厳しいと、近寄りがたい雰囲気がオーラみたいな感じでモアーっと出てるのかなって思います。

僕の場合は、幼い頃の経験で自分に欠点があったら周りに受け入れられないという記憶があるのかもしれないです。今まで蓄積された自分の経験から、それが正しいと自分のフィルターで判断しているのだと思います。

でも、それが間違いだったと大人になって気が付いたので、少し遅いですが大人になってから修正できたんだと思います。

なので、多分ですけど、今は話しかけにくいオーラはでていないだろうと思います。でも社交的ではないので、ちょっと出てるかもしれないです。まぁ、ちょっとくらいだからいいかな。

親しくなる人は、数人で十分ですしね。自分を偽って全員と親しくなってもしんどいだけですし、基本僕の場合は一人の時間が好きなので付き合いが増えても負担になりますから、ちょうど良い感じなのかなって勝手に思ってます。

話がそれましたけど、結局話しかけにくい雰囲気って目に見えないですけど、自分を受け入れることができていないとオーラみたいな感じでモアーっと感じとれる感覚的なものなのかなって思います。

なので、友達ができないとか、親しい人ができないとかで悩んでいるときは、自分から積極的に話しかけることも必要な場合はあるでしょうけど、自分をうけいれることが大切なんだろうと思います。難しいですけど自分のうけいれ方っていう本もありますしね。



「目標は堂々と緊張する」ことの意味

前に、克服するために普段こころに準備しておく3つの言葉1,2,3を書きました。その続きです。

僕の場合の対人恐怖症の症状のことで視線恐怖症、表情恐怖症、赤面症に限ってのことです。自分の症状以外のことは分からないので書きたくても書けません。ごめんなさい。

当時、僕が一番困っていた事は、

1、症状がでるかもしれないと考えながら目的の場所へ行くこと
2、症状がでた時にどうすれば良いのか
3、症状がでた場合に周りに嫌われたかどうか考えて苦しくなる

こんな感じです。順番になっていて1,2,3の順番で悩み苦しんでいたと思います。行動する前から悩み、行動中に悩み、行動した後も悩んでいたと思います。それだったら1日中悩んでたんですねって聞こえてきそうですけど、そう言われるとそうですね、一日中悩んでいたと思います。

これが毎日続けば、そりゃしんどいですよねって事なんですが、それが対人恐怖症なのでしょうがないのかもしれないです。これは僕の場合ですけどね。辛さは人それぞれで、僕より軽い人もいるでしょうし、重い人もいると思います。

今思えば、僕は軽い方だったのかもしれません。自分では物凄く辛かったのですが、コメントを頂く限りでは軽い方だったのかもしれないと考えたりします。でも比べることが出来ないので分からないです。

対人恐怖症は人それぞれですけど、自分の場合はこうだった、ああだったと書いていけば、多分近い人には伝わるのかなって思いながら書いていますので、全違う場合は参考にならないと思います。その場合はごめんなさい。

症状がでるかもしれないと考えながら目的の場所へ行くことはありますよね。症状がでたときの辛い状況を思い浮かべて「行きたくない」と考えると思います。当然そうなると思うのですが、それでも行かなきゃイケない場合ってありますよね。

その時にどう考えるのが正解なんだろうと決断できなくなるので悩むのだと思います。辛いけど行かなきゃならない状況で、でも行きたくない、、、、、、。

僕の場合は視線恐怖症で周りに迷惑を掛けてしまうことは自分で理解していたので、それが辛かったです。自分が辛いだけだったら、もうちょっとだけ我慢できたように思います。

でも、辛くても我慢できていたので、学校もギリギリですが卒業できましたし、社会人になってからも3年づつくらいは頑張ることができました。僕より辛い人は学校を卒業するまで我慢できずに辞めて、働くことも困難だったのかもしれないです。

正直、自分より辛い症状の人の気持ちは理解できていないと思います。自分が経験していないので当然と言えば当然なのかもしれません。うつ病、パニック障害、アルコール依存症など様々だと思います。

なので自分の経験している範囲でしか書けないです。本当はもっと勉強して役に立つ情報があれば書きたいのですが、どうやら限界があるようです。

ということで、いつものように話がそれましたけど、症状がでるだろうと事前に考えることは多かったです。その結果、積極的に行動することが少なくなっていました。

でも、辛くなるだろうと思っても、行かないとだめなときってありますよね。そういう時って、とにかく症状にこだわってしまうものだと思います。

今考えて思うことは、「症状に逆らわないこと」が大切なんだろうと思います。森田療法でよく「あるがまま」とか言うじゃないですか、あれって、そういうことなのかなって思います。森田療法のことを全然知らないので想像だけです。

緊張しそうな場面、症状がでそうな場面は自分がいちばん理解していたりすると思うのですが、その場面とか、その場所に行く前は、緊張しないようにとか症状がでないようにとか考えると思います。

視線恐怖だったら、気にしないように、気にされないように、見ていないように、見られていないようにすることで楽になると考えますけど、どうやっても無理なんですよね。僕の場合ですけどね。

それで、思いつくのが、見ていないフリ、見られていないフリ、気になっていないフリ、気にされていないフリということになるのですが、無理なものは無理だと思います。

見ていない、見られていないと思い込もうと思っても、実際は見られていますし、自分は見ています。この部分の詳しいことはもう一個のブログの視線恐怖症の1,2,3に書いたのでそっちを読んで頂きたいのですが、正直、我流なので意味が分からない人は多いと思います。正解かどうかも分かりませんしね。なので、多分削除することになると思います。

僕の考え方で言うと、視線恐怖症でも、そうじゃなくても、人が隣に来たら気になります。隣に来た人も自分が先にその場所にいれば気にします。

これはどうしようもないというか、必要な能力なので普通のことだと思います。

なので、気になっていないフリをしても、気になっていないと思い込んでも、気になるものは気になりますから、それに逆らうことは、そもそも無理で、その無理な事をしようとしているからしんどいのだと思います。

受け入れるしかないと思います。

じゃあどうすれば良いかということなんですが、気になりながら目の前のことをするしかないです。緊張しながら目の前のことをするしかないです。症状がありながら目の前のことをするしかないです。

視線を気にしながら目の前のことをする。
ひきつりながら会話する。
赤面しながら会話する。

ということになると思います。結局、堂々と緊張することと同じ意味になるのですが、それが難しいから困っているのだと思います。

僕の場合ですけど、何故、それが難しいと感じるのかと言うと、症状がでた時に「嫌われる」というリスクがあるからだと思います。なので、コメント頂いた方に「嫌われる勇気」は良い本ですよと教えて頂いて、実際に自分が読んで納得したので、僕からもお勧めしています。アドラー心理学のすべてを納得するかどうかは人それぞれなので、全ページお勧めかどうかは分かりませんが、読んだ方が良いと思います。

例えば、僕だけかもしれませんが、自分がバカにしている相手の前で症状がでたとしても、ちょっとマシだと思うんですよね。バカにしていなくても親とか兄弟の前で症状がでた時に、友人の前での時よりもちょっとマシだと思います。

前に書きましたけど、相手が小学生の場合と、大学生の場合とでは、症状がでたときの辛さは違うと思います。相手が小学生の場合だとちょっと楽だと思います。

これは、嫌われる勇気があるからだと思います。嫌われても平気、嫌われても自分の今後の生活にそれほど影響ないとか、そういう感じだと思います。

でも、僕がそう思っているだけなのかもしれません。そうじゃないって思う人はコメントして頂けるとありがたいです。

なので、結局、目標は堂々と緊張することで、言い換えると、堂々と症状をだすということになると思います。上にも書きましたけど、視線恐怖、表情恐怖、赤面症の場合で僕の場合です。

ゴールまで辛いですが、目標は堂々と緊張することで、その過程で間違った努力もしながら正しい努力をしていくことで克服できると思います。

途中で目標がブレることはあります。目標はブレやすいものだと思います。僕の場合はそもそも目標を間違えていました。症状が辛いので症状だけに意識が向いていました。振り返ってみると対人恐怖症なので症状がでることはしょうがないことだと思っています。

僕のように、目標を間違えると間違った努力ばかりをしてしまいます。なので、この記事を読んで嫌な気分になる人はいるかもしれませんが、できるだけ正しい努力は何なのか理解してほしいので書いています。

最初にフグを食べて苦しくなった人は、そのことを誰かに伝えるのがその人の仕事だと思います。なんて意味の分からないことも書きながらですけど、自分の経験を書けば誰かの役に立つこともありそうです。もちろん迷惑になっている場合もあるかもしれませんが、その場合はごめんなさい。

劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識

アドラー心理学ではあらゆる「縦の関係」を否定し、すべての対人関係を「横の関係」とすることを提唱しています。

嫌われる勇気(自己啓発の源流「アドラー」の教え)岩見一郎、古賀史健198ページより

アドラー心理学はもちろん素晴らしいのだと思いますが、ここまで分かりやすく解説していることが凄いと思います。自分の人生を賭けてアドラー心理学を研究されているのだと思いました。「もし、対人恐怖症の人がアドラー心理学を学んだら・・・」という「もしドラ」みたいな本でもあると思います。

この本の、「横の関係について」の章で書かれている言葉が気になりました。

・劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識
・同じではないけど対等

この他にも、すごく大切な言葉が沢山でてくるので、興味のある人は読んでみてください。

ちょっと大げさかもしれませんが、人間関係の悩みが全て解決するんじゃないかと思えるほどです。この本を教えて頂いた方に感謝しています。

前に熟年離婚する人の典型的なパターンの話を書きましたが、横の関係を理解できていれば熟年離婚にはならないだろうと思います。

この章を読んで、僕が感じたことは、人をバカにしたり見下すことって誰にでもあると思うのですが、相手を見た時に上下で判断する人は、言い換えると自分が下になる時と、自分が上になる時があるっていうことだと思います。

自分が下になった時には劣等感になりますし、自分が上になった時には相手をバカにします。そもそも上下(縦)の関係をすることが間違いで、横(同じではないけど対等)の関係にするべきなんだろうと思います。

なので、相手をバカにする気持ちがある人は、逆に考えると、自分がバカにされるという感覚が同時に存在するようになるのだと思います。

相手が年上でも年下でも上司でも部下でも同じことだと思いますが、相手を見るときに縦で見るのではなくて、「同じではないけど対等」だという横の関係の考え方が正しいのだと思います。

この考え方が自分のものになれば、対人恐怖症は楽になるのかもしれないと思いました。誤解のないように、本を読んで頂ければと思います。本を読んだ受け止め方は人それぞれだと思うので。

「課題の分離」の考え方もそうですけど、この「横の関係」の考え方も、すごく役に立つだろうと思います。

ただ、「褒めること」についても書かれていて、その部分は個人的にはまだ納得はしていません。もう一度じっくり読んでから考えようと思っているところです。別に否定している訳ではないですけど僕自身勉強不足なので、もう一度読んでみようと思っているだけです。

加藤諦三さんも本の中で「劣等感は恐ろしい」と書いています。それくらい劣等感は対人恐怖症を克服するために重要なのだと思います。

でも、横の関係の考え方が出来るようになると、劣等感そのものが存在しなくなるのだと思います。劣等感さえ感じなければ周りの目は気にならなくなるのかもしれないです。

今の自分は劣っていて、その状態の自分のままでは、周囲から受け入れられないと強く感じて、他人からの評価が全てだと思うようになるのかもしれないです。

まさに、縦の関係の中で生きているから苦しくなるということだと思います。全ての人に対して、「同じではないけど対等」という考え方ができるようになると楽になるのかもしれないです。

ちょっと勉強不足なので中途半端にしか書けませんが、興味のある人は読んでくださいね。

気持ちが通じ合うってどういう感覚?

いきなりですが、僕は今パソコンの前にいます。キーボードで文章を打っているので当たり前ですけどね。

対人恐怖症で、仮に会社でデスクワークをしていると仮定してみました。今は自宅なので実際は違いますけど、仮の話と言うか想像で書こうと思います。

僕の隣りにもパソコンがあって他の社員がいつでも使うことができる状況です。

この状況の時って、隣に誰かが来たら嫌だなーって考えると思います。緊張するだろうなーって考えると思います。誰もいないのに未来を予想して無駄に緊張することになると思います。僕の場合ですけどね。

無駄に緊張するというか、誰かが隣に来た時に、症状がでるんじゃないかと心配になったりします。

そして、実際に会社の同僚が隣の席に座りました。この場面で自分はどう考えるクセがあって、どう考えるが正解なのか考えてみました。正解はないと思いますけど僕だったらの話です。

僕は視線恐怖だったので、隣に誰かが座りそうになったら、直接その人を見ないで視野の範囲で確認して、いきなりですが、気付いていないフリとか気にしていないフリをすると思います。

この時点ですでに症状に逆らっていて、いちばん辛い症状の状態になることを避けるために、「そもそも自分は気付いていない」と思い込もうとします。

そして、何も会話することなく自分だけが感じる嫌な雰囲気を自分が勝手に作り出してしまいます。そうこうしていると、マイナスの考えが浮かんできて、症状がでてくることがありました。

少し、時間を巻き戻して考えてみると、隣りに誰かが座りそうになった時に、隣を直接見なくても視野の範囲で「誰かが座るだろう」ということを確認しています。

実は、これは、視線恐怖症の症状ではなくて、当たり前の普通の感覚です。っていうか必要な能力なので、症状ではないです。

なので、「誰かが座るだろう」と直接見なくても視野の範囲で確認しても良いんです。そして、顔を見なければ誰なのかハッキリしないので、顔を見て「あっ、〇〇さんか」と確認することは普通の事です。

この時、相手と自分の関係は「対等であり仲間」なので、「今から、パソコンで仕事ですか」と話しかけることも普通の事ですし、嫌いな人だったら何も言わないのも普通の事です。自分が嫌いな人に、わざわざ話しかけない人は多いです。

普通の感覚を症状だと思い込んで、その症状に逆らうことを考えてしまいますが、症状ではないので逆らう必要はないです。逆らうことはできませんしね。気になるものは気になりますから無理だと思います。

僕の場合ですけど、視線恐怖症になると、どこまでが症状で、どこまでが普通の感覚なのかが分からなくなるのだと思います。

表情恐怖症の場合だと、誰かが隣に座って会話することになったら、「最高の笑顔」でおもてなしすることを考えてしまいます。

しかし、隣りに座った人は「対等であり仲間」なのでビップ待遇でのおもてなしは必要ないです。嫌な顔をする必要はないですけど、最高の笑顔で迎える必要もないです。対等であって上下ではないですから(上司だとしても)。

このシュチュエーションでやるべきことは、目の前のことを症状がありながらこなすということだと思います。

そして、思いやりには思いやりで返すことで気持ちが通じ合うのだと思います。相手に思いやりを感じたら、次の日に応えるのではなくて、今その時に応えます。

自分が緊張していても、緊張しながら、今応えることで気持ちが通じ合うのだと思います。

逆に、緊張するからといって何も応えないのは礼儀としては間違っていると思います。しょうがない場合もありますし、僕は何も応えないことを繰り返してきましたから、偉そうに言うつもりはないですが、思いやりには思いやりで応えることは大切だと思います。

会話している時に、相手の言葉の中に、思いやりを探して、それを発見したら、思いやりで返すことで上手くコミュニケーションできると思いますし、気持ちが通じ合うのだろうと思います。

気持ちが通じ合うために、笑顔は必要ないです。もちろん、社交的でニコニコして愛想よく出来る人の方が魅力的で友達はできやすいかもしれませんが、それは、その人の魅力であって、それを自分の魅力にしようとしたり、そういう自分になりきることは自分に嘘をついていることになります。

自分に嘘をついてまで、相手に気に入られる必要はないです。自分には自分の魅力がありますから、自分が苦手な部分で魅力的になる必要はないです。

僕の考え方なので、正解ではないですが、こういう考え方の人もいるんだなーと参考にして頂ければと思います。

「気持ちが通じ合う」感覚って、笑顔でもないですし、気の利いた言葉でもないと思っています。思いやりに思いやりで応えようとしているかしていないかだと思います。

なので、今の自分が何点の出来なのかは関係なくて、緊張しながら思いやりに応えることで、気持ちが通じ合う感覚がでてくるのだろうと思います。

症状を消さないために

緊張するかもしれない
緊張した
緊張して恥をかいた
緊張することをビクビク怯えるようになった

緊張する場面を避けるようになった
緊張していないフリをするようになった

赤面するかもしれない
赤面した
赤面して恥をかいた
赤面することをビクビク怯えるようになった

赤面する場面を避けるようになった
赤面していないフリをするようになった

視線が気になるかもしれない
視線が気になった
視線を気にして怖かった、迷惑をかけた
視線が気になることをビクビク怯えるようになった

視線が気になる場面を避けるようになった
視線が気になっていないフリをするようになった

顔がひきつるかもしれない
顔がひきつった
顔がひきつって恥をかいた
顔がひきつることをビクビク怯えるようになった

顔がひきつる場面を避けるようになった
顔がひきつっていないフリをするようになった

僕の対人恐怖症はこんな感じの流れでした。この流れを変えようとしていたので、そもそも、緊張しない人、赤面しない人、視線が気にならない人、顔がひきつらない人になろうと考えていました。

でも、実際、今対人恐怖症が治って感じることは、

ビクビク怯えながら緊張する→堂々と緊張できるようになった
ビクビク怯えながら症状をだす→堂々と症状をだせるようになった

こういうことだと思います。緊張した時の心構えが変わっただけで、緊張しなくなったわけではないです。心構えが変わったので当然緊張する場面は極端に減りますけど、これは後からついてくる付加価値みたいなものだと思います。

なので、症状を消さない心構えがあると、間違った努力をしなくなるのだと思います。

症状が辛いので、症状がなくなれば楽になるだろうと、普通は考えると思うのですが、これが対人恐怖症の最大のワナで、治りにくい理由でもあると思います。

対人恐怖症の人の辛さが10だとすると、普通の人は0だろうと考えてしまいますが、実際は1は必ずあると思います。

なので、0を目標にすることが、そもそも間違いなんだろうと思います。目標は1で、緊張することもありますし、視線が気になることもあります。これはどうすることもできない普通の感覚なので、これを0にすることは無理だと思います。無理な事を例えば10年頑張ったとしても、無理なものは無理だと思います。

僕が言いたいのは、症状を消すことを目標にするのではなくて、堂々と緊張することを目標したほうが良いということです。(再発防止にもなると思います。)

しかし、一旦対人恐怖症になると、現実はそれが難しいので、「出来る場所でできることをする」ことが必要になるのかもしれないです。

例えば、森田療法が凄いと感じるのは、一旦、今までの生活環境から離れるので治りやすいのだろうと思います。でも、実際に一旦今までの生活環境から離れられる人は少なくて、会社勤めしながらとか、学校に通いながらでないと生活していくのは難しいだろうと思います。

僕の場合は、仕事をして収入があることが絶対条件だったので、「出来る場所」を探すのに転職を繰り返していたのかもしれません。本当は長く勤めるために、周りと仲良くして気分よく働きたかったのですが、僕には出来ませんでした。

でも、出来る人は出来るのだと思います。僕のように転職を繰り返さなくても、同じ会社に居ながら少しづつ楽になっていく人もいるだろうと思います。

「私たちは同じ平面を歩いているのであり、ここには優劣はありません。それぞれの人が自分自身の出発点、道、目標を持っており、自分で望むように、あるいはできる形で早く、あるいはゆっくり進んでいくのです。大人も子どもも、教師も生徒も、役割は異なるけれども、優劣の関係ではないのです。もっとも「同じ」であるといっているわけではありません。知識も経験も多少は(あくまでも多少)違いますし、取れる責任の量も違います。」
アドラー心理学入門 岩見一郎 91ページより

人それぞれなので、ゆっくり進む人もいますし、出発点も違います。

幼い頃に自分が劣っていると感じてしまう環境だった場合に、大人になってからそれを悔やんでもどうすることもできないと思います。僕の場合は父親がいなかったこととか、自分の家にだけゲームがなかったりしましたけど、同じ環境でも深刻に悩む場合とそうでない場合があると思います。劣等感は自分が作り上げたもので、ただの勘違いだったと大人になってから気が付いたのだと思います。

すべての人に対して、同じではないけれど対等だという横の関係の意識が出来るようになると、自分よりも優れていると感じていた人に対してハッキリと自分の意見が言えるようになると思います。

それと同時に自分より劣っていると感じていた人に対しても、対等な立場で意見が聞けるようになると思います。自分がバカにしている人、自分よりも優れていると感じている人、全ての人に対等でありたいです。







脇見恐怖の人だけ読んでください。治りそうになってきたら、間違った努力は一切やめる。

自分のいちばん辛い時期から少しづつ楽になってくる感覚を感じて、治りそうになってきた時期に思うことは、間違った努力を一切しないようにした方が良いと思います。

僕自身は間違った努力が必要な時期があったので、今まで沢山してきました。それで救われたのは事実だと思います。っていうか、間違った努力以外にできることはなかったです。正しい努力なんて出来る訳ないですし、それが何なのかも分かりませんでした。

僕の場合は視線恐怖症がいちばん辛かったので、視線恐怖症で書きますけど、どちらかというと脇見恐怖症みたいなものです。視線恐怖症も色々あるみたいですけど、正直僕は詳しく知りません。多分全部あったと思います。その中でも脇見が辛かったです。

視線恐怖症が悪化すると脇見になるのかなって勝手に思っていて、脇見の人は全部あるんじゃないかと、これも勝手に思っています。でも脇見が治れば全部治るので区別する必要はないと、これも勝手に思っています。

それで、僕の場合ですけど、脇見が治る感覚ってどういう状態かというと、例えば、隣に誰かが来た時に気になるのは気になるのですが、それが苦痛じゃない状態です。

気になるのが普通の感覚で、当たり前の感覚なのですが、気になった時に見てしまいそうとか、見てはダメだとかいう感覚になるのが脇見だと思います。

そして、実際は気になるので見てしまうことになるのですが、それが苦痛で、見ていないフリをすることになります。

気になった時に見ていないフリをするのが間違った努力だと思うのですが、僕の場合ですけど、これしかしょうがないというか、これ以外に出来ることがありませんでした。

しいて言うなら、髪の毛を伸ばしたり、帽子をかぶったりとかなんですけど、余計にしんどくなるので、途中でやらなくなりました。僕の場合は、気にしないようにすると余計に気になりました。

脇見には相当苦しみましたけど、その長い期間は、間違った努力ばかりしてきました。

今思うことですけど、治りかけてきた時期には、一切間違った努力はしない方が良いと思います。一瞬でもダメだと思います。ほぼ治ったと感じたときにでも、クセのようなものだと思うのですが、隣りに誰かが来た時に「見てしまいそう」という感覚になることがありました。

すでに症状ではないレベルなのですが、今までの習慣みたいなもので、古い記憶が残っているのだと思います。すでに普通の感覚のレベルなのですが、いちばん辛い時期の感覚を感じて、症状なのか、普通の感覚なのかが分からなくなるのだと思います。

普通の感覚を症状だと感じてしまうことはあると思います。この時に、例えば、見ていないフリを一瞬でもしようとすると、逆に気になることがあります。

普通の感覚なので、見ても良いですし、直接見なくても視野の範囲で見えるのが普通なので、視野の範囲で見ても良いのだと思いますし、症状ではないです。

見てしまいそう、なのではなくて、視野の範囲で見るのが普通なので、当たり前のことです。当たり前の感覚を無かったことにしようとしても、無理なので、無理なことをしようとしているから、いつまでも治らないのだと思います。無理なものは無理なので、僕のように10年掛けても無理です。

見えてないフリをしても、見えてないと思い込んでも、実際は視野の範囲で見えるのが普通なので、それを無くすことは無理だと思います。

僕の場合で、例えばですけど、少し気になった時に、片目を閉じるとかは間違った努力だと思います。一瞬でもしないほうが良いです。気になっているほうと逆のほうに意識を向けるのも間違った努力だと思います。

じゃあどうすれば良いかってことなんですけど、今していることをすれば大丈夫です。少し気になったとしても、症状ではないです。症状ではない普通の感覚を、症状だと感じやすくなっているのかもしれないです。

なので、治りそうになってきたら、正しい努力だけをし続ける必要があって、インターネットで、対人恐怖症とか社交不安障害とかのブログとか書き込みとかを検索するのは辞めた方が良いと思います。

治ったら、対人恐怖症のことは忘れて、自分の夢があれば、それに向かって努力すればいいことなので、僕のようにブログを書き続けたり、読んだりすることは辞めた方が良いと思います。以前うつ病が治ったという方から「このブログにもお世話になりました。ありがとうございました」というお別れのコメントを頂きましたが、それが正解だと思います。

僕の場合は、表情恐怖とか視線恐怖とか完全に治らなくても良いですし、対人恐怖症にもう一回なったとしても(なることはないですけど)問題ない環境が整っているので、ブログを書き続けてますけど、人それぞれで、そういう環境じゃない人も多いと思います。

なので、治りそうになった人は、ネットで検索せずに正しい努力だけしながら、自分のやりたいことをしていけば良いと思います。(普通の感覚を症状だと感じやすくなることがあるので)

そういう意味もあって、対人恐怖症の経験者は治ったからといってカウンセラーにならない方が良いのかもしれません。これは僕個人の意見ですけどそう思います。

経験者でカウンセラーになっている人は多いようですけど、そういう人は完全に治っている人だと思うので、9割治ったからという訳ではないと思います。逆に考えると、経験者のカウンセラーが居るカウンセリングルームを選ぶのが良いのかもしれません。でも正直分かりません。

経験者でないことがマイナスだと感じて、経験者よりも必死で勉強している人も相当多いと思いますし、熱い気持ちの人は多いと思います。逆に経験者じゃない方がカウンセラーに向いていると感じている人もいると思います。

結局、経験者でも経験者じゃなくても、その人によるだろうということなので、書いた意味がなくってしまいましたし、完全に話が変わってしまいました。

僕が言いたかったのは、治ったら、間違った努力は一切しないほうが良いということです。それが完全に治す方法だろうと思いますし、再発もしないと思います。

でも、堂々と緊張することを目標にしていれば間違った努力をしないので、問題ないと思います。9割治っても目標がブレないようにするほうが良いと思います。目標がブレなければ何も問題ないと思います。

どっちにしろ、しんどいのなら一歩踏み込んでみる。実は正しい努力の方が楽だった。

僕の場合ですけど、会話するときに自分の表情が気になるので、そういう場面を避けることを選択することが多かったです。でも、避けたとしても、そのことを後悔して、どんよりと落ち込んでいました。(なんで、こんななんだろう)

逆に、会話を避けずに頑張っても、顔がひきつって辛くなりますし、ひきつった顔を見られてヘンに思われただろうと考えて落ち込みます。

結局、避けても避けなくても、しんどいのには変わりなかったように思います。

ひきつった時に、手で顔を隠してもしんどいですし、無理に表情を作ってもしんどいですし、会話の場面を避けても避けなくてもしんどいです。

会話に集中できていないので相手の本当の気持ちには気が付かないことは多かったです。

言っている言葉と気持ちは違うことは多いものだと今は思います。でも当時そういうのには全く気が付かなかったので、良いように言うと素直なのですが、悪いように言うと世間知らずということになるのかもしれないです。僕の場合ですけどね。

相手の気持ちが理解できにくい状態になってたと思います。

この状態で友人やクラスメート、同僚などと会話しても気持ちが通じ合うことが少ないので、結局、家に帰ると一人ぼっちの感覚というか、何故か虚しく感じることは多かったです。正直、寂しいと感じることは多かったです。

でも、対人恐怖症になったら、そういう気持ちを誰もが経験するのかもしれません。

今思えば、どうせ、しんどいんだったら、今までの行動を少し変えても、変えなくてもしんどいのだろうと思います。なので、今までよりちょっとだけ間違った努力をやめて正しい努力をしても、しんどさに変わりはないのかもしれないです。

間違った努力をしても、正しい努力をしても、どっちにしてもしんどいのであれば、正しい努力をする方が良いのかなって思います。

顔がひきつるかもしれない場面で、手で顔を隠しながら会話してもしんどいですし、ひきつりながら愛情で会話してもしんどいと思います。顔がひきつるだろう場面を避けてもしんどいですし、ひきつりながら思いやりで会話してもしんどいです。

結局、どうやっても辛い気持ちになるのだろうと思います。

同じ辛い思いをするのなら、できれば、正しい努力で辛くありたいです。先のことが不安になることもありますが、自分にとって正しい努力をするのが正解だと思うことができるのなら、辛いけど正しい努力をするための道標になるんじゃないかと思います。

でも、それを続けていると、正しい努力のほうが楽なことに気が付く時があります。

今まで、辛いながらでも間違った努力をしてきたし、間違った努力しか思いつかなかったけど、これが正しい努力だと信じて、辛いながらでも正しい努力をしていくと、実は正しい努力の方が楽だったと気が付くと思います。

人それぞれでタイミングとかあると思います。無理な時期って誰にでもあると思います。

少しづつ様子を伺いながらでも良いと思うのですが、どちらにしてもしんどいのであれば、ちょっとだけ正しい努力をしてみるのも良いのではと考えたりします。

ずいぶん前にも書きましたけど、自分にとって間違った努力と正しい努力の区別を曖昧にするのではなくて、ハッキリとさせたほうが良いと思います。

間違った努力は絶対しない方が良いというのではないですし、僕は間違った努力を何年もしてきましたから、必要な時期はあるのだと思います。

でも、間違った努力をしているときに「これは、間違った努力なんだろうな」と自覚することは必要かもしれないです。そうしないと、間違った努力を少しづつ減らすことは出来ませんし、正しい努力が何なのか分からないだろうと思います。

例えばですけど、家族とか親友とか近所の子供とかを相手にひきつりながら会話してみるとかでも良いだろうと思います。

自分にとって、割と嫌われても平気な人っていると思います。上下で判断するという意味ではないですけど、なんとなくいますよね。ちょっと嫌われても大丈夫っぽい人とか。

自分にとって負担の少ない場面ってあると思いますけど、そういう場面で、少しづつ間違った努力を減らして、正しい努力に変えていければ良いのかなって思います。

でも、僕がそう思っているだけなのかもしれないです。考え方は人それぞれなので。