対人恐怖症が治りました

ひきこもり、社会不安障害(SAD)の方にも、お役に立てると思います。

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発表(本読みとか作文発表)と対人恐怖って関係ある?

僕が中学生のときに、授業で本読みを当てられてすごく緊張したのを覚えています。今でも記憶に残っているのでちょっとしたトラウマなんだろうって感じています。

あと、作文の発表で指名されて体育館で発表して、緊張しまくった記憶もあります。

本読みは上手く読めずに笑われましたし、体育館での発表の時も緊張のあまり言葉がつまり、まわりから「頑張れー!」の掛け声がでるほどでした。

僕が緊張しいだったのが原因で自分のせいでもあるのですが、今思うと、このちょっとしたトラウマになるのは、自分のせいではないんじゃないかって思います。

クラスで「誰が発表する?」ってなった時に、多数決で決めたりすると、みんな人前で発表したくないので「無難な人」を選んだりすることがあって、生徒自身が発表者を選ぶことがあると思います。

本読みで自信をなくす人って多いって聞きます。

これは、学校側にも責任があるんだと思います。発表者(本読みも含めて)を生徒が選ぶのではなくて、先生が選ぶべきなんですよね。

先生の判断で、その状況に合わせて生徒を選ぶ方が上手くいくだろうと思います。

例えば、本読みが苦手で自信のなさそうな子に体育館での発表はさせないようにしたりとか、その前にもっと小さなグループでの発表に慣れさせるとか。

その子の自信と環境を考えて、少しずつステップアップさせてあげるという配慮は必要だろうと思います。

少しづつレベルを上げていけば、本読みが苦手な子でも少しづつ自信がついて、体育館での発表も上手くできるようになると思います。

そういうのを、学校の先生には実践してほしいです。尾木ママなら理解してくれると思うのですが、それが教師の器なのかなって思います。

教師アニュアルとかがあるとすれば、そのマニュアルにはないでしょうが、教師である以上そのへんの配慮は必要だろうと思います。

もちろん、考えて実践している先生もいるでしょうけど。

今さら、こんなことを書いてもしょうがないのですが、特に小学校、中学校の教師は意識してほしいです。もちろん親もですけど。

小学、中学の先生と尾木ママに願いを込めて、、、。
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人付き合いが苦手を克服する方法

僕が人付き合いが苦手だったころ(今でも得意ではないです)は、すごく悩みました。

今は、人付き合いで悩むことはないです。以前より広い視野で周りを見れるようになったような気がしています。親や友人、兄弟などに対して、その相手だけのことではなくて、その向こう側というか、とりまきというか、環境などに目を向けることができるようになったと思います。

逆に考えると、相手のもうひとつ向こう側を意識することができるようになると、人付き合いが楽になることもあるんだろうと考えたりします。

僕が一番苦しかった時期は、人付き合いが苦手なことを他人に悟られるのが苦痛でした。

人付き合いが苦手な自分は「本当の自分ではない」「それは恥ずかしいことだ」「こんな自分ではダメだ」「カッコ悪い」「これでは異性にモテない」「もっとワイルドに生きなければ」と考えたりします。

それを認めることは「負けること」だったのかもしれないですし、プライドが高かったんだと思います。

社交的で明るくて人気者。。。。。

そういう自分でないと、自分自身が自分を受け入れることができなかったのかなって思います。自分で自分のことを批判し続けると対人恐怖になることはあると思います。

それで、今の自分と以前の悩んでいる時期の自分の違いはなんだろうって考えてみると、以前は「人付き合いが苦手」な自分を受け入れることはできなかったですし、受け入れたくなかったです。

でも、今は、それでいいんじゃいかなって思えるようになりました。

「人付き合いが苦手な自分」もアリかなって考えています。緊張するときもありますしね。24時間まったく緊張しないということはないです。

そういう、社交的ではない、明るくない、人気者でもない自分を自分で許すっていうか、認めることができたんだと思います。

僕の兄弟や親も、友人も妻も、そんな僕を知って嫌うことはしませんしね。「お前は暗いから話しない」とか、そういうのはないです。

自分の理想像でないと「嫌われるかも」と考えているのは自分だけで、実際は理想の自分でなくても嫌われることはないです。もちろん、直す必要がある部分があれば、直すほうがいいと思いますけど。

なので、人付き合いが苦手なことを克服する近道は、人付き合いが上手くなる方法を実践するのではなくて、人付き合いが苦手な自分を、自分自身で受け入れてあげることなのかなって思います。(僕の場合は)

会話が苦手なのは、コミュニケーションのスキルがないとかではなくて、そんな自分を受け入れているか受け入れていないかの違いなんだろうと思います。

子供の頃って誰とでも会話してましたしね。

少しずつ余計な知識を付けながら大人になってしまったのでしょうか。真っ直ぐに育てばこんな苦労しなかったのになって、明るい子を見て羨ましくなることもあります。

必死で塾に通わす親を見ると、僕的には塾なんてどうでもいいのになって、感じたりします。勉強ができたって人付き合いが苦手だったら、その知識をフルに活用することはできませんし、塾で勉強しなくても学校で勉強すればいいだけじゃんって思うこともあります。

でも、実際は、必要なんでしょうね。周りはみんな塾に通ってるし、自分の子供だけ塾に通わせないのも難しいのだろうと思います。

完全に違う話になりましたけど、自分を受け入れるって大切ですよね。

幸せって何だろう?

犬を見て、犬の幸せってなんだろう?と考えました。ついでに人の幸せって何だろうとか考えていたら寝れなくなってきたので記事を書きながら考えよう。

我が家の愛犬はチワワです。ロングコートチワワって言って、毛が長いチワワです。耳の下の毛が長いのでちょっとパピヨンにも似てるかなって感じです。

人間だと、「目は口ほどにモノを言う」とか言いますよね。犬の場合は「しっぽは口ほどに・・・」みたいな感じで、嬉しい時はしっぽで大体わかります。

ご飯もらうときと、遊ぶときと、僕の顔をなめるときと、体をさすってあげているときは、しっぽを振っています。っていうか、それ以外でしっぽ振ってるときってあったかな?

僕の想像なんですけど、愛犬が一番幸せな時って、僕の顔をなめている時なんだろうなって、しょうもないことを真面目に書いたりしています。

寝てる時間が多いと思いますけど、犬にとって一日でいちばんの至福の時が顔をなめてるときなんじゃないかなって思います。

これって多分愛情表現なんだろうなって思うのですが、どうなんでしょう?体をさすってあげている時も嬉しそうにしているのですが、顔をなめている時がいちばん幸せそうです。

やはり、人も犬も愛情を与えている時や愛情を受け取る時が、いちばん幸せなのでしょうか。

考えだすと終わりがないので、また次回にします。

自分の行動は自分で決定しよう!自分が自分であるために。

10代の頃から、他人の意見に振り回されていたように思います。振り回されていたというよりも、自分の意見や考えに自信がなくて、自分の意思で動けていないところがありました。

他人の意見で動けば、失敗した時に「自分のせい」にはならないからです。

自分の意見や考えはないことにして、他人に同調するフリをしていたんだと思います。こうやって、自分の感情を押し殺していると、やがてストレスは溜まることになります。

そして、意思のない自分、意見を言えない自分、個性を出せない自分、返事のできない自分になることはあると思います。そうなっても、大丈夫です。少し出遅れることにはなりますが、今からでも大丈夫です。

僕の経験からのことですが、何歳になっても「今さら、こんなこと聞けないよね」っていうことはでてくると思います。その都度、ちょっとした恥をかきながら成長していくのが理想的な成長の仕方なのかなって思います。

ちょっとした恥をかくのが嫌で、知っているフリをすると、少しづつ自信を失うことはあると思います。プライドが高いと損することもあります。

子供の頃は、分からないことがあると「これは何?」「あれは何?」と質問しまくりますよね。でも、年を重ねるごとに聞けなくなる人もいるだろうと思います。

質問をして、「そんなことも知らないのか!」と言われるのではないかという恐怖。そういうレベルの低い自分は他人から受け入れられないのではという恐怖。

見えない恐怖を避けると、余計に怖くなることは実際にあると思います。

しっかりと目を開いて、恐怖を見る。そして、怖がっている自分にも目を向ける。ただ、それだけで「見えない恐怖」だと感じていたものが、恐怖でなくなることはあると思います。

ちょっとだけ、怖い話ですが、もう15年ほど前のできごとです。

夜中に1人で知らない道を車で通ったときのことです。一瞬だけお化けのようなものが見えてしまって、(多分気のせいですが)物凄く怖くなりました。

それで、そのまま、急いで帰ろうとも思ったのですが、このまま家に帰ってしまったら、僕はお化けを見てしまったことになるので、数秒間ですが色々と考えた末に、その場に引き返して「お化けはいない、僕はお化けを見ていない」ことを確認しに行こうと考えました。

結局、その場にもどっても、お化けらしきものは一切でませんでした。少し話がそれましたけど、ちょっと似てるっていうか、対人恐怖ってそれに近いのかなって考えたりします。

怖い怖いと逃げていると、余計に怖くなることはあるでしょうし、実際は怖くない事なのかもしれません。

人それぞれに、恐怖から逃げる時期は必要だから逃げるのだと思いますが、時期をみて恐怖にさらされてみるということは必要かもしれません。

そのタイミングって、人によりますから他人から「はい!今ですよ!」って言うことできないですし、自分自身でなんとなくタイミングってわかるんじゃないかなって思います。

また、意味の分からない記事を書き始めた僕ですが、結局なにが言いたいかというと。

自分の意見や考えは、恥をかいてでも言ってみよう!ということです。子供の頃は友達とケンカしながら成長しますよね。お互いが自分の意見を言って、お互いの違いを確認したり自分とは違う考え方の友達を受け入れたりしますよね。

そして、自分が正すところは正していくことで成長しますし、「これは譲れない」という自分なりのこだわりができたりすると思います。それが個性になったりするんでしょうね。

恋人を好きになる部分って、そういう個性の部分でもあるのかなって考えたりします。

僕は、個性がないって言われることは多かったです。自己主張もしませんでしたし、人見知りで無口でしたから。まー、それも個性なのかもしれませんが、、、、、。

恥をかきながら成長しようと頑張っている自分を、客観的にみたときに自分を好きになれるような気がします。以前紹介したyoutube動画の片足の全米レスリング選手、アンソニーさんも言っていました。「どう生まれたのか?ではなくて、どう生きるか?」が大切だと。

僕が片足だった場合に、そう思えるかどうかは別として、今の自分が何点の出来なのか?はどうでもよくて、そこからどう行動したのか?が自分の人生の大切な部分だろうと思います。

誰が何を言っても、当たり前ですが、自分の人生なので自分流でOKだと思います。





明日が怖いなら、胸を張って逃げればいい

小学2年生頃から、ひきこもりだった祐日さんの歌で「君へ」



僕は少しだけ聴いて、すぐに引き込まれてしまいました。なので紹介しようと思います。

僕の心に響いたのは、「怖いなら胸を張って逃げればいい」という歌詞です。辛い時期を乗り越えた人だから書ける歌詞なんだと思います。

体育会系の人なら、「辛いなら耐えろ!」って言いますよね。でも、祐日さんは「逃げればいい」って言っています。この「逃げればいい」っていう意味は深いので、人それぞれ感じ方が違うと思います。

僕が感じたのは、逃げ道が必要な時期はあるということです。がんじがらめに自分で自分の逃げ道をふさぐ必要はなくて、逃げる自分を責める必要もないんだと思います。

逃げる自分も、自分なので肯定してあげてねっていう意味だと思います。

怖い時は逃げるということが、ときには必要で、逃げた時に自分の弱さに気付いて、その自分を自分自身が受け入れた時に、強くなれるのかなって思います。

なので、逃げることは立ち向かう前段階であって、胸を張って逃げればいいっていう意味なんだと思います。祐日さんに直接聞いてみないとわからないですが、僕はそう感じました。

この歌詞でいう、「逃げればいい」って言葉は、追いかけられて逃げるという意味ではなくて、乗り越えるために必要な初めの一歩なんだろうと感じました。

あと、未来の自分が辛い時期の自分を癒してくれるとも言っています。これは本当にその通りです。

今が辛い人は、未来の自分が必ず癒してくれます。その日は必ず来ることになっていて、その日まで踏ん張っていれば、なんとかなるっていうことです。

未来が過去を変える瞬間です。未来は変えられますし過去も変えることができます。なので未来の自分次第で、今を変えることができるのだと思います。

受け止め方は人それぞれなので、とりあえず聞いていただきたいです。オンリーヒューマン(K)も良い歌ですが、この歌も良いです。

自分を好きになればすべてが上手くいく

自分が嫌いな人、好きになれない人は多いです。

もちろん僕もそうです。今でこそある程度は自分のことが好きになれましたが、100%好きで100%自分で気に入っているとは言えません。「もっと、こういう人になりたい!」と思うことはあります。

僕は、自分のことをブログで正直に書いてきたつもりです。これからも正直にすべてを書いていこうと思っています。

今、自分のことが嫌いで、違う自分になりたいと感じている人が(当時の自分)少しの切っ掛けで、自分の進むべき道を自分なりに考えて、自分で答えをだすためです。

なので、僕は誰かにアドバイスをしているわけではなくて、例えば、当時の自分が考え方を変える切っ掛けになれば良いと考えています。人それぞれなので正解はないですから。

僕は自分のことが大嫌いだった時期に、間違った努力を散々してきました。その間違った努力は文字通り間違っているのですが、それは今になってわかることで、当時は間違った努力のお蔭で踏ん張れた部分もあると思います。

僕が間違えたのは、自分のことが大嫌いだったので、無理に本当の自分ではない自分を表現していました。

例えば、気が弱い自分が大嫌いだったので、周囲からの印象を「気が強い人」になるように操作していました。具体的に言うと、服装や口調をワイルドにするとかです。

それをすることで、周囲からワイルドな人に見えることはあります。これで作戦は成功です。気が弱い自分は周囲から見て違う自分になり、ワイルドな自分、ワイルドに見られている自分が出来上がります。

しかし、そこから色々と問題がでてきます。ウソがそんなに長続きするはずはありません。それに、そもそも、自分の作戦に騙される人の割合は少ないです。役者ならともかく素人が上手く演技はできないですし、騙せても一時的な事です。

それでも、自分の作戦は成功していると思い込もうとして、ひたすら周囲からの印象を操作することに必死になっていました。っていうか、そうしないと自分が維持できないと感じていたからだと思います。

こういう状態では、自分のことを好きなれるはずはないですよね。

無理をして理想の自分になりきったところで、自分を好きになれるはずもなく、ウソをついていることは自分自身が一番知っていることだったりします。

今、どんな自分であったとしても、まず、それを受け入れることは必要だったと思います。気の弱い自分を、自分が受け入れた時に、自分を好きになることができるのだろうと思います。

受け入れがたい自分の感情って誰にでもあると思います。それも含めて自分なので、完璧を目指しても無理なんだと思います。

「人の不幸は蜜の味」って言いますよね。自分のそんな感情に気付いたときに、自分のことが嫌いになることはあると思います。

ただ、その感情って、誰もが心の底では持っている感情で、人はその感情が表にでないように工夫しながら生きていくものだと僕は思います。

完璧にいい人になろうとしても、一生無理な話なのかもしれません。

僕は、「良い人」風にブログを書いていますが、実際はそれほど良い人ではないです。もちろん、良い人になろうと努力はしています。

なので、今の段階で自分のことを好きになって良いんだと思います。どちらにしても、完璧に良い人にはなれないので。

完璧に良い人になってから、自分を好きになろうとしても、完璧な人間になることは不可能だと思います。自分自身がいちばん嫌いな自分になる勇気があれば、今の自分を好きになれるのかもしれません。

また、意味の分からない記事を書き始めてしまいましたが、自分のことを好きになることができれば、悩まずに済みますから、ほとんどの事は今より上手くいくだろうと思います。

そもそも、悩まなければ、自分が苦しくなければ、何も問題ない話だったりすると思います。自分で問題を作って、自分で悩んでいる。同じ問題を抱えていても悩まない人は悩まないですから。

更に意味が分からなくなりましたけど、書いている僕自身よくわかりません。

人付き合いを、それなりに上手くやるには

世の中に正解のないものは多いです。その一つが「人付き合い」であり、僕らにとって最大の、そして一生のテーマなのかもしれません。

不思議なことに、社交的な人と「人付き合い」に関して話し合うと「人付き合いは難しい」と言います。

個人事業をしている知人は「仕事が早いとか遅いとかは、それほど関係ない。仕事をもらうには、結局は人付き合いだ。」と言っています。

その知人の手伝いで一緒に仕事に行くことが多いです。

先日、朝から事務所で待ち合わせてから、他社の人たちと現場で合流する予定なっていたので、僕と知人は車で現場に向かいました。

知人は、「今日は嫌いな人が来るんだ」と言っていました。僕は社交的な人でも嫌いな人が来るときはちょっとブルーになるんだなって思いました。

そして、現場に到着して、「嫌いな人は、この人のことか」と事前に名前を聞いていたのですぐに分かりました。

現場では「おー!久しぶり!」「こないだの現場は・・・・どうだった?」「〇〇さん今日は来ないんだ?」など、朝の会話が始まります。

その数分後、知人は嫌いと言っていた人に、ふざけて抱き着いていました(ハグみたいな感じ)。

その光景はちょっと衝撃でした。自分で事業をやっている人の人付き合いの「重み」みたいなものを目の前に感じて、自分にはちょっと難しいとも感じました。

社交的な人が、「人付き合いは難しい」というのは、こういうことなんだろうと思います。人付き合いの重要さを理解しているから「むずかしい」と表現するのだと思います。

ちょっと長くなりますが、もうひとつ話があります。

社交的な親戚がいるのですが、僕の義理の兄にあたる人です。その兄の実家に親戚が集まる機会があって、兄が世話役みたいな感じだったので、僕も一緒に手伝いながら一緒に行動していました。兄は挨拶をしたり、食事の時はビールを注いだり、ニコニコと楽しそうにその場を上手く進行させていました。

そして、皆が解散したあと、兄は「頭が痛い」と言って一時間ほど寝込んでいました。そうとう神経を使ったようです。しかし僕は、ほとんど疲れていませんでした。僕は元々図太い性格のようですが、それだけではないと感じました。

社交的な人と、僕のようにそうでない人の違いなんだろうと思います。「気を使うところ」が違うんだなと感じました。

社交的な人は「相手をもてなす」ことに集中して疲れますし、僕のような社交的でない人は「自分はどう見られているか?」に集中して疲れます。

割合の問題で、相手と自分のバランスなのかなって思います。自分に集中しすぎても、相手に集中しすぎても疲れるようです。

なので、どちらのタイプの人でも「人付き合いはむずかしい」と感じるのだと思います。

それで、この経験をどう生かすのか、ということに意味があると思うのですが、今後の人付き合いに対しての考え方が変わる人もいるのかもしれません。

人それぞれですが、僕の場合で書きます。

人と接するときに愛情を持って接するというのは、キホンの「キ」の部分で、これが崩れることはないのですが、「それなりに対応する」ことが必要かなって思います。

嫌いな相手であっても、その自分の感情を自分が理解したうえで、上手くやっていくには、「嫌い」という感情をなくそうとするのではなくて、その感情がある自分を受け入れつつも、それなりに立ち回ることが必要だろうと思います。

嫌いな相手から好かれることを目的にするのではなくて、嫌いな相手は嫌いな相手でいったん自分で認める。そして、それなりにで良いと思うのですが、「思いやり」「おもてなし」で対応する。

数字で表現すると、社交的な人は相手8割、自分2割。僕のような社交的でない人は自分8割、相手2割といった感じでしょうか。

このバランスを考えてみると、5割5割が妥当なのかもしれません。

以前、社交的な人に必要以上に憧れた時期があります。でも今考えると、社交的な人は社交的な人なりに大変なんですよね。

貧乏な人がお金持ちに嫉妬したり、憧れたり、嫌いになったり、目標にしたりしますがお金持ちはお金持ちで苦しんでいることは多いです。

お金持ちの子供は、まわりから見ると「好きなものが買える」「旅行に沢山行ける」「美味しいものが食べれる」と羨ましがられます。

でも、実際は何かあると「あの子はお金持ちの家だから」という一言で片づけられます。その言葉には、ひがみが入ってることは多いと思います。日本は特にそういう傾向があるそうです。

「お金持ちは悪いこと」みたいな嫉妬心からだと思うのですが、実はお金持ちの親は人一倍苦労してお金持ちになっていることは多いです。

普通の努力しかしていない人に「あの子はお金持ちの家だから」と皮肉を言われる筋合いはないということに気づく人は少ないと思います。

かなり話が脱線しましたが、ちょっと近いところがあって、「無い物ねだり」みたいなところはあると思います。

「それなりに」という表現が正しいのか分かりませんが、社交的な人とそうでない人の違いは、意識を向けているところが違うのかなって思います。

逆に言うと、意識の向け方だけで、「生きづらい」と思う気持ちはなくなるのかもしれません。

僕が初めてカウンセリングに行ったときに、「自分に意識が向いている状態」と言われました。正直、そんなこと言われてもしょうがないじゃんって思いました。

でも、そこを変えないと何も変わらないんだろうなって今は思います。

文章で書くのは簡単ですし、言葉にするのも簡単なのですが、実際に意識を変えるには時間が必要です。もしかすると何年も掛かることなのかもしれないです。

人付き合いが一生のテーマになるなら、そんなに慌てる必要もなく、ゆったりと進むというのも自分の人生かなって思います。

スローダンスってドラマ(妻夫木さん、深津さんとか)ありましたよね。そんな感じで。

他人の欠点は責めるのではなくて埋めてあげよう

久しぶりに、心屋仁之助さんの「奇跡の言葉」という本を開いてみると、こう書かれていた。

「他人の欠点は責めるのではなく埋めてあげよう」

人と関わるときに、他人の欠点を見てしまうことは多いです。もちろん僕もそうです。「この人の、こういう部分は少し問題がありそうだ」と感じることは多いです。

そして、嫌いになることもあります。

逆に考えると、自分にどこか欠点があったとして、それを他人が見た時に、嫌われることもあると思います。

「嫌う側」「嫌われる側」、どちらの立場であったとしても、自分自身がそれで幸せなのかということなのですが、どちらも幸せではないだろうと思います。

何が幸せなのかは人それぞれですし、生まれた場所や育った環境が違いますから、考え方も人それぞれでいいと思います。

「他人の欠点は責めるのではなく埋めてあげる」

そんな気持ちがあれば、今より少しだけ寛容になれるのかもしれません。他人の欠点を発見した時に、2通りに分かれると思います。

相手の欠点を発見して、嫌いになる。
相手の欠点を発見して、好きになる。

相手の欠点を発見して嫌いになることは、よくありますよね。「あの人の、こういう部分が嫌いだ」と思うことはあります。

相手の欠点を発見して嫌いになった場合の、お互いのメリットは少ないでしょうし、マイナスの関係になるだろうと思います。それはそれでいいとも思います。

でも、よく考えてみると、本人は自分の欠点に気が付いていないことは多いです(僕自身そうでした)。よかれと思っての行動が欠点になっている場合や、実は自分の欠点に気付いていて、どうしようもないと感じている場合もあると思います。

以前、書いた「寝ぐせ」みたいなもので、他人という鏡に映さなければ見えてこないものもあると思います。なので、相手の欠点を発見した時に、そのことを教えてあげることが、ときには「やさしさ」になることはあると思います。

しかし、それは理想の話で、現実はそう簡単ではなさそうです。親友や夫婦間では通用する理想論だと思いますが、クラスメイト、同僚、知人などに対しては難しい部分はあります。

そう考えると、本人が自分の欠点に気づくまで、やさしく見守ってあげることや、欠点をそっとフォローしてあげることの方が簡単そうです。

自分にとっても、相手にとっても、「相手の嫌な部分」を攻撃するよりも、少しだけフォローするほうが、メリットはありそうです。

逆に、自分に嫌われる部分があったときに、「自分に欠点はあっていい、周りは見守ってくれている」という感覚になりやすいと思います。(自分のまなざしは、そのまま自分にかえってくる)

僕は「こんな自分ではダメだ」という感覚をずっと持っていました。

でも、今考えると、こんな自分でも、やさしく見守ってくれる相手とだけ付き合っていけばよかったと思います。自分の欠点を隠すことに気を使って何年も過ごしてきたので、自然に学べることを学べていないかったと感じています。

手塚治虫さんは「鉄腕アトムは完全じゃない、なぜなら悪い心をもたないから」みたいなことを言っています。

人は誰でも欠点がありますから、完璧な人だと感じていた相手に欠点を見ると、親しみがでてきて好きになることはあると思います。(自分に欠点があるから、同類だと感じたり)

「他人の欠点は、責めるのではなく埋めてあげよう」と思う気持ちは、あったほうが自分も他人も楽に生きていけると思います。

しかし、実際に「欠点を埋めてあげる」という行為は、「余計なお世話」になる場合もあると思います。

ここは、難しい判断だと思いますし、人それぞれですが、僕の場合は妻や兄弟に対しては「欠点は埋めてあげよう」と考えた行為(悪いところを指摘してあげたり)をすることはありますが、知人などには「欠点はやさしく見守ってあげる」ようにしているつもりです。

欠点は自分で埋めることしかできず、他人が埋めてあげることは難しいと思うからです。言い方を変えると、「欠点を自分で埋める手助けをする」ということになると思います。

世の中には、他人の悪いところを発見すると、ズケズケと指摘してくる人がいます。それで、嫌いになる人もいますし、逆に「物凄く好き」という人もいます。

ズケズケ言う人は、嫌われる勇気を持っているのかなって感じますし、個人的には結構好きです。ただ、やはり嫌われるケースは多いですよね。単純に自分がイライラしてズケズケ言ってくる人もいますから。

そもそも、相手を理解することは不可能である、とアドラーは考えているのです。だからこそ言葉を使うコミュニケーションが重要であることを強調するのです。アドラー心理学入門(よりよい人間関係のために)169pより。

この記事に答えはないですが、人間関係でのヒントになれば嬉しいです。

どうして、「自分に」ではなく、隣の人に話しかけるのか。

自分も含めて3~4人で行動している時(仕事中や飲み会などで)に、割と社交的な人が会話の切っ掛けを作ることは多いですが、「自分に」ではなく、隣の人に話しかけることって無いですか?

そんな場面での感じ方や受け止め方で自分が対人恐怖なのか、どうなのかが分かると思います。逆に考えてみると、そこを変えることができれば、少しだけ楽になると思います。

例えば、僕の場合での対人恐怖だと、「あっ、やっぱりか!、この人も、自分には話しかけないんだ。多分、僕のことが嫌いなんだろうな。僕は相手の目を見て話すのが苦手だし、ニコニコしてないし、愛想悪いもんな。それに、僕と会話しても面白くないだろうし・・・。」

逆に、対人恐怖を克服して、自分の欠点を受け入れた場合も書いてみます。

「あっ、この人に話しかけるんだ。確かに、この人は愛想も良いし話しかけやすい雰囲気がある。自分もこの人には話しかけやすいからな。人付き合いは誰でも苦になるところはあるけど、こういう人がクッションの役割になって、皆が上手く付き合っていけるんだろうな。それが、この人の良いところだよな。自分はこんなタイプにはなれないけど、自分にも同じくらい良いところはあるんだよ。要は役割分担ってことか。」

これは、フィクションです。

ですが、同じ場面でも、受け止め方の違いで、楽な人と、苦しくなる人(会話が)に分かれるのは事実だと思います。

この場面での受け止め方の違いを考えてみると、少しの違いのようでもありますし、大きな違いのようでもあります。どっちなんだよって話なんですが、自分が楽に生きていくためには大きな違いになります。

受け止め方って、自分の頭の中だけの違いなんですよね。場面は同じだという設定なので当たり前ですが、状況は全く同じで、考え方の差だけです。

対人恐怖を克服するっていうのは、こういうことだと僕は考えています。考え方や受け止め方(頭の中だけのこと)で対人恐怖症になりますし、逆に、それだけで対人恐怖は克服できます。

ここまで読んで、「意味がわからない」「それが難しいんだよ」「そんなこと、わかってる」「黙れ偽善者!」

様々な人が、それぞれの感想になると思います。考え方は人それぞれなので、それでいいと思います。ただ、僕の経験上のことを書きだすと、こうなってしまうというだけの事です。

もし、僕のことを信用している人がいるとすれば「対人恐怖を克服して、自分の欠点を受け入れた場合」の受け止め方をじっくり読み直すことになると思います。

深く考えることで、何か気付くことがあると思うからです。

どんなことにも共通することなのかもしれませんが、教科書に書いている文章やマニュアルに書いてあることだけを勉強しても役に立たないことは多いと思います。

自分で考えて、腑に落ちた時に、すーっと自分のものになり、役に立つのだと思います。

僕が言いたいのは、ガラスのような知識を吸収するより、もっと頑丈な、たとえハンマーで誰かに叩かれても壊れない岩のようなものにするほうが、ぶり返さないということです。

なので、インプットとアウトプットを繰り返すことで、少しづつ自信になると思います。

もし、悩む時間が多いと感じたら、自分にとって「正しい努力」とは何かを考えて、その正しい努力をする時間に変えてほしいです。

もし、学生時代の自分に手紙を書くことができるのなら、こう書きます。

「あなたの、今の辛い気持ちは理解できます。でも、僕は当時辛かったときのことを思い出せなくなってきています。長い年月が経ちましたから。これから、もっと思い出せなくなるでしょう。なので、今、あなたが悩んでいることって近い将来、薄っすらとした記憶になっていくでしょう。今、あなたが悩んでいることは、未来では忘れてしまいそうなくらいの、その程度のものです。「今日の出来事で悩むのは無駄だ」とは言いませんが、悩みながら、辛いながら、何かできることってあるでしょ。それをやってください。今の辛さは、この先、忘れてしまうくらいのことです。今、あなたのクラスメートは40人くらいですよね、そのクラスメートの顔はぼんやりとした記憶です。苗字はなんとか思い出せる人もいますけど、下の名前まではちょっと難しいです。僕があなたに言いたいのは、顔もハッキリ思い出せない相手に気に入られる必要はないということです。そのままの自分をだして、嫌われたら嫌われたで特に問題はないです。今の僕に何の影響もないですから。なので、今の僕のことは何も心配しなくてもいいです。好き勝手やってくれればいいです。そのままの自分を理解してくれる人とだけ楽しくやってください。」

ちょっと長くなりましたけど、こんな手紙を書いてみました。

「過去の自分に手紙なんてだせるわけないじゃん!」って思う人もいるでしょう。僕もそう思ってました。でも、実際に書いてみれば「そうでもないかな」って感じると思います。僕ってバカですか。
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